かれこれ20年ぶりに田舎へ行った。
きっかけは、叔母Aが体調を崩し、年齢も年齢なので(最後かもしれないから)顔が見たいらしいと母親経由で連絡が来たことだ。
かなり長いこと、母と親戚、または親戚の間での小競り合いのようなものがあり、子供ながらに田舎の因習やいざこざにうんざりしてしまい、自分はもう天涯孤独孤立無援で良いので静かに過ごしたいと思い、20年間ほとんど音信不通を貫き通した。気がついたら母と喧嘩していた叔母Bとは仲直りしていたのだが。
叔母Aは私が幼い頃に長いこと面倒を見てもらっていた時期があったので、このまま会えずに死ぬというと後悔もあるだろうと思い、20年という月日や人間関係の複雑さがかなり億劫であったが行くことに決めた。ついでに、自分が一時期育った離島にも。どういう場所で自分が育ったか、どう感じていたかを夫に共有したいと思った。ちょうど自分は仕事を辞めて暇な時期で、尚且つ金銭的にも余裕が出てきた時期だったことも後押しした。
私が来るらしい、となった瞬間にずっと年上のいとこ達が「迎えに行くよー」とか「泊まるところ割引あるからねー」などと連絡をくれて、会ったら泣いたり目を潤ませて迎えてくれて、自分はこの人たちに可愛がられていたから地獄のような家庭でもなんとか生きて来れたんだなと思った。
夫と「基地があるってこういうことかー」などと沖縄の歴史に思いを馳せたりしながら叔母の見舞いに行き、存外元気で回復もしていることに安心しつつ、皺や髪の毛に20年の歴史を感じ、辛くなりその日はぐるぐる考えてしまい寝ることができなかった。私に気を遣って、いとこや叔母は踏み込んだ話をして来なかったが、漏れ聞こえる言葉たちにみんな色々あったんだなと思わされた。自分は育ててもらった恩があるので、私も色々あったけどねというのは見せずに、元気に伸び伸び育ってきたよありがとうねーという振りをした。
観光をしたりしながら、離島へ。これがなかなかに文化人類学だった。しんどかった。
着いた瞬間に寺に行くよーと叔母Bに連れて行かれて、生まれる前に死んだ祖母らの写真に手を合わさせられ、「帰ってきたよーとか子供に恵まれますようにーとか祈りなさい」と言われて「ははは」と湿度0%の笑いが出た。「お陰様で子供が欲しいとは全く思わないのでやめてくださいね」と心の中で呟いた。夫はその間「これ以上うちの妻に関わらないでくれ」と祈っていたらしい。
叔母Bは数日間一緒に過ごすことになり、しばしば説教をされ、同じ話を3周も4周もし、1回なら耐えられる「親子なんだから母親を大事にしなさい」などの話を何度も喰らわされ、強い日差し、塩分を含んだ高い湿度の風と共に心の体力を削られた。実の親よりも寛容で、言い分も納得できることも色々あり、話も思ったより通じて安心したが、この人は「呪い」を再生産しているなー、と思った。日本の非都市部は大体こんな感じなんだろうけど。
このせいか、初日終わった後手が蕁麻疹だらけになり、「お、田舎アレルギー」と思った。
これを4日間繰り返すこととする。
その間に、従兄弟に会った。
私はこの従兄弟がめちゃめちゃ大好きでものすごく懐いている。もう一人懐いていた従兄弟がいるが、別ベクトルで好きすぎる。
子供の頃、私がまだ本州にいた頃にうちに来て遊んでくれたり、もう少し成長して私が離島に引っ越した後も偶然私が不安定な時に遠い土地から連絡をしてきて、一緒に遊ぼうねーと言ってくれたり、大人になってからも唯一私にコンタクトを取ろうとしてくれて、頻繁に会えたりしないけど何故かここぞという時に連絡をくれる人だった。向こうも、人生の起伏が激しい人で、どこか弱さが見え隠れする人だったから、気の強い人が多い親戚の中で自分も弱さを見せて安心できるほとんど唯一の人だったんだなと思う。元々別の場所にいたが、ここ10年くらいで島に帰ってきていたらしい。
島に来る前から、何となくそんな気がしていたが、その従兄弟が色々大変だった。家庭の辛さから逃避するためにお酒をたくさん飲んで、仕事でこういうのがあってさ、俺は間違っていないのに、と上司と衝突して辞めて、というのを繰り返してきてさ、という話をずっとしていた。とにかく話を聞いて欲しいんだという感じだった。成績は上げられるのに人に正面からぶつかって、正義感が強くて職務怠慢が許せなくて、おいおい遺伝か?家庭がそうさせるのか?この気質はよ、とうんざりした。キッホルの紋章が浮かんで見えた。
叔母の家から宿まで送るよ、と従兄弟と夫と私で夜道を歩きながら、「これまだ誰にも言ってないんだけどー」とうお……というパンチのある話を聞いたりした。この人は私がすでに通り過ぎた道でうずくまって苦しんでいる、とも感じた。しかも何年もずっとそこでぐるぐるしていて、こんな町に居るせいで誰にも救えないしより彼を追い詰めている。傷口に塩を塗るのが正しい傷の治療です!みたいなことをずっとやっている。クソみたいな場所だと思った。そして、また、似たような仕事をしている私と夫なら「俺の話わかってくれるよね?」といった感じではしゃいでペラペラ喋って、強い缶チューハイを3缶くらい飲み、帰り道にコンビニに入ってさらにストゼロを買って「実はこれ、今日10缶目なんだよね」と言って私を恐怖させた。
それでも暴れるわけでもなく、無邪気に笑ったり、色々な思いから泣く私の頭を黙って撫でてくれたりして、この人は心底優しすぎるしどれだけ苦しいんだろうと思ってまた泣いた。思わず何度も抱きしめたり手を握ったりしたが何年も辛かったねという気持ちとこの呪いを振り払いたいという気持ちと何度も救ってくれてありがとうという気持ちと大好きだから自分をもう傷つけないでくれ、死なないでくれ、という祈りを込めた。祖母の遺影にはそれを願えばよかったのかもしれない。それでも足りなかった。ふと居なくなってしまいそうでもっと側にいてくれと願った。この人を飲み込まれずに支えるにはどうすれば良いかな、と思って定期的に電話することにした。飛行機の中から私は味方だよ、と大袈裟かもしれないLINEを送った。人を救うことは私には出来ないし、ダメな時はダメなんだろうけど、無条件に彼を肯定できる存在でありたいと思った。
そういう呪いのデパートを眺めて、総じて私はこの島にずっといなくて良かったなと思った。居たらとっくに自殺している。確実に速やかに。だけど思ったよりも地獄ではなかった。思ったよりは。もっと話が通じないと思っていたので。まあ、発信もしなかったけど。人間には適切な距離があり、分かり合えないことがあるし、家族でも無理なら離れるしかないし、この20年のいざこざは起こるべくして起こったなとも思った。
今回の旅の曲。