2025/7/12

田舎に帰った衝撃から抜け出せず、初の週末、やっと夫とゆっくり話すことができて心の整理がついた。

ショックだったんだなー。自分を大切にしてくれた人が自分を大切にできてないのが。自分が思ってたよりもショックだった。これが私の弱さだけど、放っておけない。それと同時に自分との類似性を見出したいから心の中を覗きたいとか、この後の物語を教えてくれという感情もある。余計気になる。昔みたいに従兄弟に甘えたいが今この人に全力出して甘えられないなというか、ある程度ビジネス的に接待されているという感じもあり。でも昔の優しさは確実にあって、逆に辛くなった。

思わず昨日電話して言いたいことを色々話して、ついでに言えなかった「偶然とはいえ何時もしんどいときに連絡くれたのが支えになってたんだよね、ありがとう」と言うのが伝えられてだいぶ気も楽になった。それを伝えたら向こうも少し泣いていたような気がする。

このせいでかなり体調が悪かったがようやく、平常モードに戻ってきた。寝れないし腹も壊していた。

そして明後日から新しい職場だ。これはこれで別種のストレス。たまに夕焼けを見れたり丘から街を見下ろせたら写真を撮って従兄弟に送って勝手に安全基地ぶろうとは思う。実際自分はそれでうっすら救われてたし、1年に1回くらい思い出して彼なら分かってくれるんじゃないかと思っていたんだよね。

2025/7/7 田舎に帰った

かれこれ20年ぶりに田舎へ行った。

きっかけは、叔母Aが体調を崩し、年齢も年齢なので(最後かもしれないから)顔が見たいらしいと母親経由で連絡が来たことだ。

かなり長いこと、母と親戚、または親戚の間での小競り合いのようなものがあり、子供ながらに田舎の因習やいざこざにうんざりしてしまい、自分はもう天涯孤独孤立無援で良いので静かに過ごしたいと思い、20年間ほとんど音信不通を貫き通した。気がついたら母と喧嘩していた叔母Bとは仲直りしていたのだが。

叔母Aは私が幼い頃に長いこと面倒を見てもらっていた時期があったので、このまま会えずに死ぬというと後悔もあるだろうと思い、20年という月日や人間関係の複雑さがかなり億劫であったが行くことに決めた。ついでに、自分が一時期育った離島にも。どういう場所で自分が育ったか、どう感じていたかを夫に共有したいと思った。ちょうど自分は仕事を辞めて暇な時期で、尚且つ金銭的にも余裕が出てきた時期だったことも後押しした。

私が来るらしい、となった瞬間にずっと年上のいとこ達が「迎えに行くよー」とか「泊まるところ割引あるからねー」などと連絡をくれて、会ったら泣いたり目を潤ませて迎えてくれて、自分はこの人たちに可愛がられていたから地獄のような家庭でもなんとか生きて来れたんだなと思った。

夫と「基地があるってこういうことかー」などと沖縄の歴史に思いを馳せたりしながら叔母の見舞いに行き、存外元気で回復もしていることに安心しつつ、皺や髪の毛に20年の歴史を感じ、辛くなりその日はぐるぐる考えてしまい寝ることができなかった。私に気を遣って、いとこや叔母は踏み込んだ話をして来なかったが、漏れ聞こえる言葉たちにみんな色々あったんだなと思わされた。自分は育ててもらった恩があるので、私も色々あったけどねというのは見せずに、元気に伸び伸び育ってきたよありがとうねーという振りをした。

観光をしたりしながら、離島へ。これがなかなかに文化人類学だった。しんどかった。
着いた瞬間に寺に行くよーと叔母Bに連れて行かれて、生まれる前に死んだ祖母らの写真に手を合わさせられ、「帰ってきたよーとか子供に恵まれますようにーとか祈りなさい」と言われて「ははは」と湿度0%の笑いが出た。「お陰様で子供が欲しいとは全く思わないのでやめてくださいね」と心の中で呟いた。夫はその間「これ以上うちの妻に関わらないでくれ」と祈っていたらしい。

叔母Bは数日間一緒に過ごすことになり、しばしば説教をされ、同じ話を3周も4周もし、1回なら耐えられる「親子なんだから母親を大事にしなさい」などの話を何度も喰らわされ、強い日差し、塩分を含んだ高い湿度の風と共に心の体力を削られた。実の親よりも寛容で、言い分も納得できることも色々あり、話も思ったより通じて安心したが、この人は「呪い」を再生産しているなー、と思った。日本の非都市部は大体こんな感じなんだろうけど。
このせいか、初日終わった後手が蕁麻疹だらけになり、「お、田舎アレルギー」と思った。
これを4日間繰り返すこととする。

その間に、従兄弟に会った。
私はこの従兄弟がめちゃめちゃ大好きでものすごく懐いている。もう一人懐いていた従兄弟がいるが、別ベクトルで好きすぎる。
子供の頃、私がまだ本州にいた頃にうちに来て遊んでくれたり、もう少し成長して私が離島に引っ越した後も偶然私が不安定な時に遠い土地から連絡をしてきて、一緒に遊ぼうねーと言ってくれたり、大人になってからも唯一私にコンタクトを取ろうとしてくれて、頻繁に会えたりしないけど何故かここぞという時に連絡をくれる人だった。向こうも、人生の起伏が激しい人で、どこか弱さが見え隠れする人だったから、気の強い人が多い親戚の中で自分も弱さを見せて安心できるほとんど唯一の人だったんだなと思う。元々別の場所にいたが、ここ10年くらいで島に帰ってきていたらしい。

島に来る前から、何となくそんな気がしていたが、その従兄弟が色々大変だった。家庭の辛さから逃避するためにお酒をたくさん飲んで、仕事でこういうのがあってさ、俺は間違っていないのに、と上司と衝突して辞めて、というのを繰り返してきてさ、という話をずっとしていた。とにかく話を聞いて欲しいんだという感じだった。成績は上げられるのに人に正面からぶつかって、正義感が強くて職務怠慢が許せなくて、おいおい遺伝か?家庭がそうさせるのか?この気質はよ、とうんざりした。キッホルの紋章が浮かんで見えた。

叔母の家から宿まで送るよ、と従兄弟と夫と私で夜道を歩きながら、「これまだ誰にも言ってないんだけどー」とうお……というパンチのある話を聞いたりした。この人は私がすでに通り過ぎた道でうずくまって苦しんでいる、とも感じた。しかも何年もずっとそこでぐるぐるしていて、こんな町に居るせいで誰にも救えないしより彼を追い詰めている。傷口に塩を塗るのが正しい傷の治療です!みたいなことをずっとやっている。クソみたいな場所だと思った。そして、また、似たような仕事をしている私と夫なら「俺の話わかってくれるよね?」といった感じではしゃいでペラペラ喋って、強い缶チューハイを3缶くらい飲み、帰り道にコンビニに入ってさらにストゼロを買って「実はこれ、今日10缶目なんだよね」と言って私を恐怖させた。

それでも暴れるわけでもなく、無邪気に笑ったり、色々な思いから泣く私の頭を黙って撫でてくれたりして、この人は心底優しすぎるしどれだけ苦しいんだろうと思ってまた泣いた。思わず何度も抱きしめたり手を握ったりしたが何年も辛かったねという気持ちとこの呪いを振り払いたいという気持ちと何度も救ってくれてありがとうという気持ちと大好きだから自分をもう傷つけないでくれ、死なないでくれ、という祈りを込めた。祖母の遺影にはそれを願えばよかったのかもしれない。それでも足りなかった。ふと居なくなってしまいそうでもっと側にいてくれと願った。この人を飲み込まれずに支えるにはどうすれば良いかな、と思って定期的に電話することにした。飛行機の中から私は味方だよ、と大袈裟かもしれないLINEを送った。人を救うことは私には出来ないし、ダメな時はダメなんだろうけど、無条件に彼を肯定できる存在でありたいと思った。

そういう呪いのデパートを眺めて、総じて私はこの島にずっといなくて良かったなと思った。居たらとっくに自殺している。確実に速やかに。だけど思ったよりも地獄ではなかった。思ったよりは。もっと話が通じないと思っていたので。まあ、発信もしなかったけど。人間には適切な距離があり、分かり合えないことがあるし、家族でも無理なら離れるしかないし、この20年のいざこざは起こるべくして起こったなとも思った。

今回の旅の曲。

2025/06/23 待つこと

「これは待てるということなのか!」と言葉でその感覚を捉えることができるようになったのは一昨日くらい。最近、ふつふつと、実感として「待つ」という行為ができるようになってきた。状況の変化、何かが良くなるだろうと期待して待てるようになった。

元々それが全く出来ないわけではなかったはずだが、割とすぐに「あ、これは才能ないな」「見込みが無いな」と諦めてしまうような人間で、部活とか仕事の強制力があって初めて何かを身に付けることができた。そうだとしても諦めることはあった。そういえば電車を待つのも嫌だった。

ピアノだったり英語だったり、プログラミングだったり、この10年は別に自分に特別才能があるわけでは無いことをやったりやらされたり、今月はなにも改善しなかったなあ、才能ないなあと思いながら、ある日突然何かができるようになることを繰り返すうちに、コツコツやってれば何事も終わりがくるし何かしら端緒を掴めるようになる、ということが分かってきた。(あと、良い先生を見つけてその人に習うのも大事。良い先生の条件にも待てる能力が要るなと思う)

積み重ねるうちに自信ができて、脳ってそんなにバカじゃないから繰り返していれば覚えたりすんだなーという理解もあるし、そのせいなのか加齢なのか純粋に繰り返すことや待つことに苦痛を覚えなくなった。

あと、自分の中に「自分を急かす何か」が居て、それを意識的に追い出すことを最近はやっている。その正体はよくわからないけど、効率的に物事をやれという価値観だったり、とろいのは恥ずべきことだという考えだったりする。それもどこで身に付けたかわからないけど、確実に7歳頃には存在していたと思う。のんびりしてたら置いていかれてしまう、という恐怖を感じていた。自転車になかなか乗れるようにならない、漢字の模写の時間で人より5ページ分くらい遅い、算数の問題だけ解くのが速くてそれは褒められる…などの経験。

そういうわけで、急かす自分は常に何かを学ぶ時に効率よく、ショートカットを使いまくって見た目上の点数を上手く見せていたけど、とくにここ数年の仕事でそれあんまり良くないなーと思った。コツコツやった方がいいな、とか。コツコツできないのも恐怖故なんだけど、途中でせかせかせずに取り組もうと思った時に、急いでも別に効率上がらないし意味ないし、むしろ効率下がったり効率を上げるための作業もおざなりになるし、コツコツやった方が充足感あるなー、と気付いたのだった。次第に急かす自分は鳴りを潜め始めている。

こういうことを「待つ」と表現したのは春日武彦の「待つ力」という本の影響だと思われる。ふと、昔読んだこの本を思い出して「これ、待つ力じゃん!」と自分で定義できたのだった。

「待つ力」を読み返してて思った。最近は待つことでイライラする、そわそわするほどのエネルギーが無い。待った方が楽、という感じかも。それが経験則として分かったのもあるし、加齢もあるんだろうなー。あとは過程が楽しめるようにもなってきて。

こうやって見ると自分がいかにまともな人間になってきているのかを実感する。

2025/06/16 やめた

会社をやめてきた。大人になってからこんなに悲しくて泣いたことあったっけと思った。というか、生涯通してないかも。悔しくて腹立たしくて泣いたことはあれど、喪失の痛み。今まで失わないように、傷つかないようにして生きてきたのかもしれないと思った。失っても悲しくないように、自分が片手で持てる大きさだけを抱えて、持ちすぎないように。荷が重くならないような選択ばかりして、重くなってきたら捨てて、失った時は大したことないからと言い。本当に大事なものだけを絶対に失わないようにだけしていた。

Jpopの歌詞のようだが本当にそういう人生だったと思う。何度も転校していると人間はこうなる。

自分の中で職場の存在がこんなに大きくなっているということに気付けていなかった。チームメンバーこそ愛らしかったけれど、仕事には完全に疲れ果てていて、人なら辞めても会おうと思えば会えるし、と思っていたから、何故涙が出るのかわからなかったけど、これは喪失の痛みなんだと、会社のパソコンを返す少し前にようやく気がついた。鈍感すぎる。ときメモGSプレイしてて氷室零一が自分の恋愛感情に気付いてないの流石に創作すぎる、と言っていたが一方の私はどうだか。案外人は自分のことをわかっていないのか?

とにかくこの数年は必死だった。自分が仕事に食らいつくために、チームが自分のせいで壊れないように、せっかく日本で就職することを決めた子たちが路頭に迷わないように。理不尽なことが大嫌いな私がいままでされて嫌だったことを自分のチームメイトにはしたくなかった。ただとにかくみんなが納得して仕事をして楽しい気持ちになって欲しかった。そのために自分が苦手なこともやったし、実感として「身を粉にした」と思う。正しさマシーンだった、とも思う。言葉はめちゃくちゃ通じていたわけじゃないけどきっとその気持ちは伝わっていたんじゃないかなと最後に思うことができた。なのに自分はそれを自ら失う選択をした。

文字通り、三日三晩泣いて、会社のSlackにもアクセスできなくなって、ようやく辞めたことが現実味を帯びつつある。

毎月1回、カウンセラーと話して心の整理を付けているわけだけど、そこで出てきたのは「使い潰された」とか「踏み荒らされた」「収奪された」といった言葉だった。過去にはやり切ったとか、ここまで出来れば自分に怖いものはないだろう、と感じてそれも転職する一つの理由になったわけだけど、やり切ったという清々しい気持ちよりも、疲弊、複雑骨折、という感じがしている。実際自分が転職するぞ、と思ったのは組織がやばかったからだし、これ以上頑張れないし、一回頑張るのを辞めたら二度と立ち上がれず自分が嫌な人間になる気がしたからだ。自分が良かれと思ってやっていること、耕したものを奪われた、という感覚。「何の景色が見えますか」とカウンセラーに問われた時に「荒地で、地面は硬くひび割れていて草は生え放題になっています」と思わず口を付いて出た。踏み荒らされた、とも感じた。周りの人に、会社に。

本当にサポートもなかった。ただ一人奮闘していたし、時々全然違う部署の人が通りがかりに、大変って聞いてますけど、大丈夫ですか?と聞いてくれるくらい。それにギリ救われていた。サポートどころか、暴言も吐かれた。執行役員から。私個人じゃなくて私の属していた組織を指してだけど。呆れた。現場は一人の人間の好き嫌いで物事の方向性が決まり、正論が通じなくなった。昔はそうではなかったのに。実は昔からそうだったかもしれない。唯一そこから時々守ってくれた人はとうに居なくなった。

もっと早く異動したり辞めれば良かったかも、とはいまになって思うけど、それはそれで自分から自信を奪う行為だったと思うから、これが一番早い行動だったのだと思う。嫌いなこと、苦手なことでもどうこうして成果をだし、自分の限界が知れたのは今だったので。

本当に本当に、悲しくて、どうしてこういう気持ちにならないといけないのか、ふざけるなと思うけど、こうもしなければもっと心がボロボロになっていただろうと感じる。今月からの人員配置を見て、本当に辞めることにして正解だったなとも思うし、色んな人の首が飛ばない限り、戻ろうとは思わない。会社の性格の悪い部分が出て変なことになっていたから、別の首になったとしても変わらない気がするから、もうあの会社に戻ることはないかも。全く、寂しいことだ。自分らしく振る舞い、仕事できていた場所を組織の自家中毒で失うなんてね。

2025/05/06

連休中、何度かブログを書こうとしたが言葉が生まれず断念。そうこうしている間に私のGWが終わろうとしている。ちょうど昨年のGWはときめきメモリアルGSに夢中になっていたが、今年はハイキングしたり湖を自転車で一周するなどして、アホみたいにボードゲームのネット対戦に没頭していたら10日が過ぎた。

転職しようと決めてから新しい職場が決まるまでがおよそ3ヶ月、そして新しい職場に入るまでおよそ3ヶ月。中途半端な時間だけが与えられていて白とも黒とも切り分けられない曖昧な状況の下に置かれていて、妙に疲れる。おお、これが今現代で必要とされている不確実性耐性というやつか、という気持ちになる。私はわりかしデジタルな人間であるから、何かしら今起きていることや、置かれている状況に意味を見出して名前を付けたいし、見通しを立てて安心したいが、当然転職先のことなんてまだ見えないのでソワソワとした気持ちだけが残る。それから逃れるかのように毎日ゲームをする。

そもそも、今の職場は完璧に疲れてしまったなあと思う。労働時間以上に疲労した。もっと早く辞めれば良かったのかもしれない。最初から仕事は難しく、慣れてきたと思ったら急に英語で仕事しなきゃいけなくなり、少し馴染んできたと思ったら上司が何度も変わったり、パラシュート人事で仕組みを壊して新しい仕組みを作られたり…なんかこの愚痴を延々と言ってばかりな気がするが。

良いこともあった気がする。時間や場所の融通が効くので働きやすかった。みんな頭が良かった。無駄なルールがなかったので新しい仕組みやツールを入れやすかったのでストレスがなかった。サクサク物事を進められた時期もあった。会社負担で英語の勉強ができたし、いろいろな国の人と一緒に働くことができた。前の会社で出来なかった複雑なサービスを担当できた。

でも出来なかったこともいっぱいある。もっとアジャイルに物を作りたかったし、生のユーザーに会いに行くことと、もっと法律が絡むような仕事もしたかった。キャリアが自分の思い通りに進むことなんて無いのかもしれないね。

前の会社では結果を出していればチャンスが与えられたけど、今の会社では給料がちょっと上がるだけだったな。そういう意味では前の会社の方がマネジメントしているとも言えるのかもしれないな。

結果的には前の会社と、会社としてのレベルはそう変わらないのかもなと思った。逆に会社としての歴史や基盤というのがどれだけ価値のあるものなのかということがわかった気がする。キャリアとしてはそういう会社で働くことのメリットってあるんだろうな。先人たちの知恵というものがそこに蓄積されているから。IT企業なんてどこも結局どこも同じような感じかもしれないけど。

あとはなんだろうな、自分の中にあった正しさみたいなものが壊れたような気がする。それは良いことなのか悪いことなのかよくわからなくなっている。美しいものがいいとは限らない、正論が正しいとは限らない。最後の方は自分が納得できていないけどやるしかないことがあまりにも多くてつらかった。上司らもみんなめちゃくちゃででも進めるしかなくて、文句を言うエネルギーすらも奪われてしまった。ああやって進めたことが本当に正しかったのかどうか確認できないのは残念だな。

世の中に対してはちょっと諦めの気持ちがあって、世の中こんなもんかという気持ちもある。仕事が好きで仕事を主体に考えていたけど、次の職場もそんな感じだったら趣味を大事にした方がいいのかもな、とか。

明らかに今の直属の上司が口コミサイトに会社の評判を書いている。まあ書いてることは概ね間違っていないけど、あなたはうちの会社にあまり合っていない人間なのを気づいてほしい。あなたの性格や責任感のなさは褒められたものではないのではないでしょうか。大事な時期に長期間の旅行の日程を入れたりするあたりとか。